飛べ

わーわー言うとります。

ポテト

セブンプレミアム クリスピーポテト チリマヨネーズ味

f:id:goha5800:20210304151024j:plain

これ

今日、職場でこれをちょっと分けてもらって食べたんだけど、あまりに美味しすぎてその後しばらくこれの事しか考えられなくなってしまった。ものすごい中毒性。

 

最近はほぼ仕事しかしてない日が多くて、自分の人生の中でもダントツでプライベートな何かをする余裕がなくなっている。ブログをまたやろうと思った理由もそれに対する抵抗みたいなところもあるけど、それにしても書くこともないよなーとも思っている。なんじゃそりゃ。でも書け。「今日は書くことがない」でもいいから書け。とりあえず今はそんな感じ。

 

最近はなるべく通勤を自転車で行くようにしている。これも特に理由はないけど、これもまた自分の中で「何もする余裕がなくなっていることに対する抵抗」みたいなとこはあると思う。けど、しんどかったのは最初だけで、1週間も続けばちゃんと楽しくなってきていて、自分もまだ何かやろうと思えばやれるな、と思ったりしている。今乗ってるのは10年以上前からのロードだけど、自転車への熱がある今のうちに思い切って新しいの買ってやろうとさえ思う。というか単にグラベルロードが欲しい。今度の休みに見に行きたい。その休みの前の日にはセブンのポテトを買って帰ってハイボールとか飲みたい。いやその休みがないのよ。最近はそんな感じ。とりあえず今は働け、あと何もなくてもなんか書け。

ええやん

恥ずかしながらブログに戻ってきました。いやはや。

何かアウトプットをしていないと(ネット上にアカウントとして存在を置かせていただいている意義としての)自分は死ぬ、というかとっくに死んでいる。と思ったからだ。だからといって今更付け焼き刃でブログで急にわーわー言うたとて(それも今の動画だ配信だって時代にブログて)、だけど。

 

とにかく人間って何かをやり続けてる時はちゃんと、ちょっとずつでも成長していくものだと思うけど、何かをしなくなったら(自分はいつまでもいつからでもその気になればまたやれる気ではあるものの、)実際のところ自分が持っていた成長は物凄い勢いで失われていく、と感じている。

つまり、自分の中では、その気になればブログくらいの文章はその気になればいつからでもいくらでも打てる気ではいるけど、多分今の自分にそれくらいのポテンシャルは残ってない。ないならまた作るしか無い。そんな事を最近になって思ったからだ。

とりあえずそんな感じです。要は「なんかまたやりたくなった」だけ。言い訳終わり。

 

配信ライブ「ダイアン対かまいたち 見届け人は千鳥さん」が面白かった。

なんか本当に、良くも悪くも、平日にNGKの夜公演でやってそうなライブだったと思う。なかなか揃わないような3組が揃っていて、いかにもこの日だけの何かが起きそうなタイトルだけど中身はホントに何の変哲もないゲームライブで(吉本あるある)、でもその中でみんながなんとかしようとドタバタして、その日だけのノリができたりして、テレビじゃ観られないようなハイライトの1つや2つも観られたら「今日はなんかいいものが観れたな…」と思って帰れるような、ほんっとに良くも悪くも普通のライブ。この1年くらい、配信ライブは色んなタイプのものをそれなりに観てきたけど、なんか本当に「久しぶりに普通のライブを観たな…」って思えたというか、そういえば自分も前は会社を定時でダッシュしてNGKとかに行って、こんなライブを観て別に特別な収穫なんて何もなくても「今日もなんか楽しかったな」と思って帰るような、そんな生活をしてたんだな、みたいな気分になった、という意味で、だいぶ特殊な配信ライブだったと思う。

 

企画の内容が古いし面白くもない、段取りが悪い、「Don't forget Osaka」の意味がわからない、今この3組を集めて何千人に有料配信で見せる内容がこれなのか、etc.、ネットで色々言われているのには個人的には異論もないけど、でもライブってこれくらいがなんだかんだで楽しくないですか、って思った。少なくとも自分は逆張りとかじゃなくてホントに普通に楽しんで観られたので、思ったよりも評判が悪くてビックリした。

わかんないけど、もし今がコロナ以降の社会情勢の変化を経ていない、2019年頃の社会からそのまんまの延長で2021年に来ているとして、このライブをNGKで、配信なしの客席で(そこそこの倍率の抽選を当てられて)観られていたら、多分普通にメチャクチャ盛り上がっていたと思う。少なくとも「金返せ」みたいな感じにはならなかったと思う。…たしかに自分はそう思うんだけど、でも今は「コロナ以降の社会情勢の変化を経ていない、2019年頃の社会からそのまんまの延長で2021年」では無いし、そこそこの倍率の抽選を勝ち抜けた数百人の客としてナマで観ているわけではないし、そういうところの変数の違いで同じ内容のイベントでもどう見えるか、どう観られるかというのは変わってくるし、どういう感想が最大数になるかも変わってくる、というのはあるんだと思う。

つまりそれは、配信ライブ時代になって、今までなら物理的に数百人くらいが観られる限度だったライブでも数千人、時には数万人が視聴できる時代にはなったけど、その数千人や数万人がいずれ社会情勢がもとに戻ったとしても「コンスタントに劇場に足を運ぶお客さん」にはならないのだろうな、というのもすごく感じる。

やっぱり配信ライブは(劇場のキャパと同じくらいの枚数が売れたらそれでいいようなタイプのものはともかくとして、数千枚くらい売りたいタイプの配信ライブは、)配信ライブに特化した内容(劇場のライブそのままというよりは、ちょっとテレビ的な方やDVDなどの映像ソフト化に軸が入ってる感じ)じゃないと大方の視聴者層からの満足感は高くならないんだろうし、劇場のライブはナマだろうと配信越しだろうと、どんな媒体で観るとしても、そこの空気感が共有される最大数というのはそんなに大きくない数が限度になるのかもしれない、と思った。

 

あと、8年くらい前に、東京のルミネで「スーパー千鳥パーティ」が久しぶりにあると聞いて、居ても立ってもいられなくなって関西からムリヤリ観に行った時のことを思い出した。前日にノブさんが入院されたため急遽シンプルなトークライブに変更になり、それでもまあ、と思っていたけど、なぜか地獄というか悪夢のようなライブだったのを覚えている。あまりにどうにもならない内容すぎて、終演後に自分はこんなのを観に来るために東京に来て、そして今から深夜バスで帰るのか…と思うと本当に嫌すぎてロビーで凹んでいたら、同じような感じで関西からバスで来てた人たちと、関東に来るたびにお世話になってる人たちも同じような感じで帰れなくなっていて、とりあえずみんなで近くのお店に行くことになって「なんでこんな事になってしまったのか…」と淡々と話し合った夜があったような気がする。

別にそれ自体はいい夜じゃなかったかもしれないけど、今までたくさんライブを観てきてもう全然記憶に残せていないライブもたくさんあるけど、あの日のライブとあの終演後のロビーの雰囲気は一生忘れられないと思う。そして(あの時とは全然比べられるような悪い内容じゃなかったけど)今回のライブも結構長い間、好きな人達の中で「あの時の配信ライブはひどかったよね~」って話題でしばらくネタにして遊べることになるだろうし、割とずっと記憶の上の方に残ることになるライブだったと思う。じゃあいいんじゃないでしょうか。僕の中では割と普通にそんな感じでした。

太陽がまた輝くとき

・引き続きダラダラさせていただいています。そろそろ何かし始めないと、とは思いつつ。

 

・いよいよ社内の(非公式の)通達で「今、この施設の誰かから感染者が出て、それが新聞やニュースで出ようものなら、私達全員が地域やネットの人達から人殺し扱いされたり、今後必要な地域の協力を長く断られることも覚悟しないといけません」という話が出るようになった。もちろんそういう覚悟は言われなくとも最近はしているけど、改めて言われると、それをみんなでうんうん頷いていると、ほんの数週間で全く別の世界に来てしまったような気さえもする。戻れるものなら戻りたい。時を戻そう。

 

閑話休題ツイッターをやっていて、自分はそこでは元々はそんなには政治的なことや社会的なことにはあまり言及しすぎないように、とは思っていて、それは自分が一応ホシノ企画という一団体をやってたり、色んな人と行動を共にしたりする以上、自分だけでなく自分の関係者になっていただく人の事も考えたら、自分が個人的な思想なんかの問題で不必要に摩擦を生むリスクを表に出すことはないだろう、と思っていたのはある。

 

・ここ最近、質問箱などを通して「あなたはお笑いやテレビのことで読みたいと思ってフォローしていたが、最近のあなたの社会的な方への言及はウンザリしている(要約)」「あなたはそういう発言はしない方がいい、あなたの事を思って言ってあげますが黙っておいたほうが今後のことを考えて得ですよ(要約)」というのを複数(それも2つや3つじゃなく)いただくようになった。本当にすいません。というか、そんな個人的なミクロな視点で見ずとも、最近はネットやSNS全体を見ても「そんなにギスギスするな」「もっとポジティブに行こう」みたいな発言や空気を求める人と、「うるせえ!」「もっと怒っていこうな!」みたいな怒りが止まらない人に二極化しているように感じる。

 

・そこには色んな人の色んな思惑もあるんだと思うけど、大きくは「同じ国に生きていながら、今の状況では人それぞれに今の切迫感が違いすぎる」というのがあると思っている。ついこの前まではこの国で生きているというのは世界でもトップクラスに安全な、まさか今日明日に自分の生活や健康が失われるとは思えない国に生きていたのが、あっという間に、人によっては今日明日に自分もいつ健康が失われるかもしれない、というリスクに怯えながら働いている人も居るし、あまりにも予想できなかった理由で自分の事業や財産がどんどん目減りしていく恐怖に晒されている人も居る。一方、もちろん同じ国に生きていて、いくらかのリスクはあるとはいえある程度安全な環境だったり、あまり以前と今でリスクの変わらない職種に就けている(あるいはテレワークなどの対応に成功している)人も居るし、様々な要因できょう現在生きている実感として「今がどれくらい切迫した状況だと感じているか」が、人によって違いすぎる状態になってしまった、と思っている。

 

・そういう状況下で、本当に切迫した状況だと感じている人達にしたら、たとえフォロワーにウンザリされようが、平穏を望む人に疎まれようが、自分のところに必要な助けが来ていないと感じていて不安になっている時に「皆さんもっと落ち着きましょう」とか「あまり不穏なことを言わないようにしましょう」とか言われたって到底承服できないだろうし、でも逆に以前と今とでそこまで生活や切迫さの変化を感じていない人達にしたら、以前と比べてみんながやたらとささくれ立って、ちょっとした動画やメッセージにだって何かしらイチャモンを付けて文句を言っているようにも見えるのだと思う。

 

・僕個人にしたら、明日には地域から犯罪者扱いされるかもしれないし、もしかしたら自分や自分の近親者がいつ感染者になるかもしれない、というそこそこ毎日を恐ろしいと思う状況で生きていて、かつ行政の対応は全く不十分だと思っている。そして自分が見ている範囲でも、自分が今までにお世話になってきた人達の中で自分の店だったり事業や生活がいつまで持ち堪えられるか判らない不安の中で必死にやっている人達の事も見ている。ゆえに荒れる。この状況で著名人が「誰かが誰かを責めているのがつらい」とか、国のトップが率先して家に居てお茶飲んでる姿をアピールしてたら、ふざけんなテメーと思ってしまう。でも、人によってはやっぱり「誰かが誰かを責めているのがつらい」のかもしれないし、国のトップが率先して家に居てお茶飲んでるくらいが丁度いいのかもしれない。そこにはどうしようもない分断がある。どっちかがどっちかを説得できたり、どっちかが正しくてどっちかが間違ってる、と言えるようなものではないのを、まず自分も受け入れないといけない。

 

・そしてこの分断を生んだ理由が、人間にはどうしようも出来ないウイルスというものの存在でもあり、本当は人間にはどうしようも出来たはずなのに、平和な年月の間にどうしようもせずに放っておいたら本当にどうしようも出来ないものになってしまった、自分たちの生活を預ける今の行政でもあるということに、なんとも言えないものを感じている。(っていうのは個人的な感想であり、これも人により色んな見え方があるでしょうが)

 

・なんにせよあまりクダを巻いてただ不安になっていても仕方がないし、自分のできることをするしかないのですが。なんにせよ、僕は、今は自分の生活や存在に切迫したものを感じていて不安や怒りがあるならそれを口にすることを我慢しないといけない段階ではないと思うし、逆にそういうのを見るのが嫌な程度に平静が保たれている人は、それも我慢せずにどんどんミュートなり解除なりしていけばいいと思う。というのを、いくつかの匿名の方への回答にかえて提出させていただきます。しんどい時期ですが、どちら様もご自愛ください。

ヒマの過ごし方

・なんとなくほぼ毎日目標でつけようと思っていたブログを、案の定というかあっさりと投げ出していました。いわんこっちゃない。

 

・急に暇になった。もちろん仕事は職業的な理由で在宅勤務などに切り替わるわけでもなく、今も全然ずっと働き続けているんですが、逆にいうとそれ以外の予定が全部なくなってしまった。最近は減っていたとはいえ月に10本前後はライブを観たりしていたのが一旦ぜんぶ白紙になった。楽しみだったライブも無くなったし、出してもらえる予定だったイベントも、運営するつもりだった大喜利会も全部なくなった。というところで、思い返せばここ数年は本当にずっと忙しくて、仕事に出ているかどこかに遊びに出ているか誰かと打ち合わせをしているか、あるいは家にいる時間は何かのイベントなどの準備をしている時間でしか無く、本当に「何もしないで家にいる」という時間をずいぶん過ごしてなかったことに気がついた。

 

・週に1~2日、何も予定のない日が出来るようになってきた。勿論、外に出るのも憚られるので終日を家で過ごすことになる。はじめのうちは、それはそれでと軽い気分で、買ったままずっと遊べてなかったゲームを立ち上げたり録画したままの番組などを観ていた。けどすぐに「それでいいのか?」「こんな期間を無為に過ごしていいのか?」と思うようになった。これだけ空いた時間があるなら、何かをするべきなのでは、と思うようになった。けど、何かをしよう、と取り掛かると今度は「こんなに何もしないでいい時間が(結果的に与えられるのは)もう二度と無いのでは?」「その時間を、ただ何もしないでいると不安だ、という理由で何かをしようとするのは逆に無意味では?」という考えが頭の中で膨らんでくる。こうなるとワケが解らなくなる。敢えて何もしないで家から出ないでダラダラとエンタメを消費する自分も、家に籠もるしかない期間に何かをしようとする自分も不正解に思えるし、どっちにしていても刻一刻と(2月や3月に想像していた以上に)悪くなっていく社会状況に対して何も出来なさ過ぎる無力感や不安が強すぎて、どう過ごしていてもそもそもの不安が解消できてなさすぎて集中できない。結局、何もしないでただ休みの日を1日家で過ごしているような日が続いている。

 

・というところでずっと悩んでいて、今日の宣言でさらにこれからあと数週間やそこらではまだまだ家から出られそうにない状況の前で、参ったな、と思ってた時に、1つの曲を思い出した。

 

本来ヒトはヒマだった
そしてそれを受け入れる事ができた
世界中のいたるところその足あとを
見つける事が出来るだろう
大仏 ピラミッド 巨乳 万里の長城
この世の多くデカいものの
発想自体 ヒマのたまもの
地図を作ったやつのゆとり 並大抵のものではあるまい
うるう年に気づいたやつのヒマさかげんを想像してみろ
またかつて 海の塩分を 1パーセント上げようと
何千トンもの塩をあつめた 男がいたとかいないとか
ほかにも奇行愚行の結果
最終的には何も残さなかった
多くの愛すべきヒマ人たちが
いた だろう たぶん な!!

これらの事からもハッキリ言える
今の人がヒマを受け入れる
事が出来なくなりつつあるなら
それは能力の減退だ
減退はいかん くいとめるのだ
ヒマ人どもよ立ち上がるときだ
ヒマを見つけてヒマを知れ
ヒマを生き抜く強さを持て
一生を棒にふるぐらいの
ヒマとゆとりを持って進もう
人の数だけヒマはあるのだ
それこそあたりまえの事なのだ

”ヒマの過ごし方” スチャダラパー(一部引用)

 

 スチャダラパーの「WILD FANCY ALLIANCE」は10代の頃正直あんまりわかんなくて、20代になってから「いやすごいな」と思って、30代になってから一番聴いてる気がする。閑話休題、20代でこの境地にたどり着いていたBOSEさんの世界、すごくないです??????

 

・なんか、しばらくはなるようになったらいいかな、と思った。早くも色んな文化人とかビジネス系の人たちとかが「今の時期に新しい何かを習得するべき!」みたいな話をされてるのも見るし、それが正しいとは思うんだけど、今回急に与えられた膨大なヒマというのはただのヒマではない。毎日社会が悪くなっていく中で、自分や自分の周囲の人達がいつ無事を奪われるかわからない、という不安の中で、ただ先だけを観て勉強とかに没頭できるほど自分のメンタルは強くないし神経も太くない。そう開き直って、当面の間はまだ何をどうするとも決めてないけど、あんまりそんなコト自体も考えすぎないで過ごそうと思った。ゲームしたい日はゲームするし、寝たい日は寝るし、誰かと話せそうな日は話す。それでそのうち、何かしら勉強とかしたくなったらする。それくらいでいい。今はヒマを過ごす。そんな風に思いました。という報告です。誰が興味。

 

・とりあえず、ありきたりですが皆さんご自愛ください。とりあえず生き残りたい。

生きる

R-1ぐらんぷりを観た。どのネタも、もちろん優勝の野田さんがめちゃくちゃ面白かったのは勿論だけど、個人的にはヒューマン中村さんの「受信料!」のエコーが一番シビれたかもしれない。あんな部分にまだ遊べる部分があるとは。

 

・ちょっとだけ、メルヘン須長さんのネタで思ったことで、世間にある何かを独特の視点や言葉で斬って、それが観ている人の共感などを呼んで笑いになる、という仕組みの時に、ある程度「それを斬ったらみんな喜ぶとわかっているもの」を斬りに行くときに、「こんなに攻めた姿勢で斬りに行っている」というポーズがあんまり大きすぎると、「いや、そんな攻めた勝負してるポーズしてますけど、それってある程度間違いなくウケる、確実に共感を得られると思ってやってますよね」って気持ちのほうが勝ってしまって冷めてしまうんだな、と思った。

・毒を吐く対象がパリピ・タピオカ・オタクって、もうある程度みんながどういう共通認識を持っているかも判っているようなものをわざわざまだ蹴りに行くときは、よっぽど斬新な視点や言葉で行くとか、あるいは出来るだけ保険をかけない(フリップの絵をブサイクにするとか声をキモくするとか、そういう保険をかければかけるほど攻めているというポーズが野暮ったく見えるので)みたいなのって大事だな、というか。それこそちょっと前のニューヨークの「音ゲーうまいやつ全員ダサいねん、あれ格好良いと思ってるの本人だけなんやから」とかは、みんなの中にある音ゲーやってる人のイメージを言えそうで言えない言葉で言い切ってるから通ってるお笑いだと思うし、最後の「質問箱やってる人はバカ」くらい他のもスパッと端的に保険無しで斬れてたらな、と思った。なんとなくあれだけ、観ていて「これで決勝行けるのかよ」ってつぶやいてた人の気持ちは、自分も正直そう思いますって思った。

 

・あと「天空のヒマラヤ部族」も続けて観た。単純にナスDという人の人間力というか生命力みたいなのにものすごく惹かれる。ヒマラヤの部族の人たちにパンのような食べ物を差し出されて、ナスDがそれを美味しそうに食べたら次から次へとエンドレスに持ってこられて、それをひたすらうまいうまいと言いながら全部食べ続けたら部族の人たちが嬉しそうに笑い転げるシーンがあった。そういえば「陸海空」の部族アースの時も、ナスDは事あるごとに言葉の通じない部族の人達の前で、ひたすら彼らが食べる物と同じ物を食べまくったり、同じ酒を誰よりも飲んでみせたりして彼らを喜ばせていた。シンプルな体力や知識量、プロとしての意識の高さや独創性、絵や歌でも魅せられるポテンシャルの広さなど、ナスDという人の凄さは色々ありすぎるけど、最終的にはシンプルにただただ「人間力というか生命力みたいなのがすごい」と思ってしまう。

・今までのシリーズの中でもちょっと怪しい場面とか、これホントかな?って思ってしまうくだりが全く無かったというと嘘になる。けど、そういうのでちょっと「これ本当にやってるのかな」って思う時に、でも実際に自分の足でヒマラヤを登りきったり、サメを自分で捕まえてさばいて調理して完食する人が、その程度の「やったこと」をしても何の意味もないんだよなと思うと、浮かんだ疑問もかき消されてしまう。その辺の「どこまで本当かわからないけど、多分本当なんだろうと思わせる力」もずば抜けてるし、そのグレーな感じもひっくるめてテレビの面白い部分だと思う。そもそもテレビなんてそれくらいが一番いい。

タスク

・まる一日休みだった。観に行きたいライブも、その途中で寄りたい場所もある休日だったけど家に居た一日だった。普段からなるべくライブはどの用事よりも優先するようにしている(そのために普段働いているといっても過言ではないのだから)けど、その分、普段から「ライブはあとから観られないから」を理由にして後回しにしている用事も自分の中でパンクするほど積み上がっているのを自覚している。というかパンクしている。今日はそんな後回しにしている用事の山を1日かけて崩していた。多分、1日かけて1割も消化できていない。もうしばらく続くであろう自粛ムードの中、少なくとも自分は「今のうちにするべきこと」が結構あるような気がしてきた。大変だ。

 

・そんなわけで今日はずっと家で机かPCに向かってたので、BGM代わりにずっとラジオを聴いてたり配信を観たりもした。吉本興業がやってる劇場からの無観客配信もいくつか観たけど、思った以上に面白かった。コンテンツリーグのDVDとかでたまにお客さんやスタッフの笑い声の入ってない、スタジオ収録と思われるような無観客の漫才やコントの映像作品があるけど、そういうのとはまた違う「観客の居ない劇場で(カメラ越しの視聴者や、画面外にいる劇場スタッフや同業者に)いかにこの状況でしかできないお笑いを作ってみせるか」みたいなところで色んな人達が勝負してる感じもあるし、かと思えば本来のネタをほとんど崩さずにそのままやりきる人達もいるし(それはそれで、アドリブが効く効かないの話というより、このネタはもうこの形が一番おもしろい状態で完成していますので、みたいな姿勢も感じる。囲碁将棋とか劇場の長尺で観ると、改めてとんでもなく面白かった)、普段はテレビやYouTubeに流出するものではないような劇場の普段の寄席公演ならではのような場面(ネタ中にものすごい噛んだり、ネタ中に小道具が足りなかったり、時間が余ってトリの組が調整のために長めにネタをやったり)も普通に家で観られるのがすごく不思議な感じだった。アーカイブはそんなに長い期間残らないみたいだけど、意外と色んな意味で後にも先にも二度と観られるタイプではない公演の記録になっていくと思う。観れるうちに観られるだけ観ておきたい。

 

・迷惑メールで「コロナウイルス撲滅!今なら同じ値段で5枚セット!」と書いてあって、マスクの話かな、と思ったら違法B-CASカードの話だった。B-CASカード5枚もいらないしコロナウイルス関係ないだろ

ログインボーナス

・明日がまる1日休みになった。嬉しい。けど、どう使ったものかと思う。気がついたら「休日だからと外に出て、電車に乗って繁華街に出て買い物をして外食してライブでも観て帰る」というような割とありふれた休日の使い方が、だいぶよろしく思われない使い方になってしまった気がする。本当にどうしようか。

 

・そういえばこのブログを始めた時に、できるだけ毎日続けるためにブログのトップの説明欄のところに「10分縛りでブログを書く練習」と書いていたが、全然10分で縛れてないことに今頃気がついた。ので外した。すいません、ほとんどのエントリは10分で書いてないです。10分くらいで書いてる日もあると思いますけど。

 

 


六代 桂文枝 創作落語No.300 特別配信

吉本興業が休止中の劇場を使って無観客配信をやってるのはまだ観られてないけど、先にこっちを見た。なんばグランド花月での無観客での新作落語の収録。CD等で聴く、はじめから収録を前提にした、笑い声などの入ってない無観客でスタジオのような環境で収録された落語とは違って、あんなに大きな劇場で誰も居ない客席に向かって、何の反応もないまま淡々と進んでいく落語にはどこかなんともいえない寂しさや、隠しきれない無念さも感じられつつ、でもそんな環境でも折れずにやり切ってみせることでの、何かある種の意地やプライドのようなものも伝わってくる、面白い一席だったと思う。最後にちょっとだけインタビューが入っていて「100作目も200作目も覚えてないけど、300作目のことは忘れられないかもしれない」みたいに話されてるのが印象的だった。300作も作ってきて既に記憶にもない作品も少なくないのかもしれないけど、それだけの数を作ってきたからこそ今までの(それこそ落語だけに限らず)どこか思わぬ所で何かの助けになってきたことは少なからずあるんだろうし、作品自体が残ろうが残らまいが、そういう意味での「作り続ける意味」ってあるんだろうなと思う。何にせよ見ごたえのある映像だと思った。

 

・仕事柄、よく病院に行く。正確には色んな人の介助や付き添いでよく病院に行く。きょう行った病院は待合室の本とかマンガがちょっと置いてあるスペースに、たくさんの絵本や雑誌に混ざって「カイジ」が置いてあった。コンビニ版のぶっといやつで、鉄骨渡り編1冊だけ置いてあった。いや身体悪くして病院来てる人の待ち時間に「57億の孤独…!!」とか読ませるなよ