飛べ

わーわー言うとります。

地球あやうし!

いやー、嫌ですね。オリンピックのやつ。何から何まできっしょい話。

 

色々思う所はあるけど、この件を考えるにあたって「90年代サブカルとは何だったか」「渋谷系カルチャーが社会や私(たち)にどういう影響を与えたか」みたいな話は今回は置いておく。その辺の自分語りは今じゃなくていい気がする。

 

誰だってバレてないだけで、本当はしかるべき精算が出来ていない過去の失態なんてひとつやふたつどころじゃなくあるだろうし、「自分にはそんなものはない」という人でも本当は(意識的に隠しているにしても、本当はあるけど認識していないだけにしても)やっぱりひとつやふたつどころじゃなくあると思う。というか、そんな過去がひとつもない人なんて居るのだろうか、くらいに思う。

そんな人達が、有名人の過去の未精算の失態や現在形のスキャンダルが表に出るたびにコメントスクラムを組み、「悪いものを裁いて何が悪い」とみんなでとことん叩き、もし何らかのコメントや会見をしたとして「今更許されるものではない」と別に手を緩めるわけでもなく、結局の所は社会的に死ぬまで追い詰めたい、という毎回のこの運動が、自分にはとても正当性のあるものとは思えない。

それは有名人の過去の失態やスキャンダルが許されるものかどうかの話とセットにする必要はないし、昔にいじめをしていた人が今のうのうと活動していて許せないという義憤がいくらあったとしても、その義憤が当人をみんながいつまでもバッシングし続けていい理由にはならないと思うし、それを「トーンポリシングだ」といわれると、いや違うっしょとしか思えない。

別に「あの人はああいう件があったから私は好きじゃないな」と、自分の中でいつまでも許さない/認めないことは自由だ。ただ、それを目に見える言葉にして集団で送り続けるというのは、その時点で結構ある一線を簡単に越えている気がする。

 

結局の所、本当にこういう問題がいつか解決する時が来るとしたら、それは過去の失態が明るみになった有名人を全員社会的に抹殺した時ではなく、自分たちひとりひとりが過去に精算できてないような事に対して何らかの総括や精算をして、今後につなげていくしかないし、その自分の中にある後ろめたさに誰もが自覚があれば、そこまで激しい言葉と上からの目線で他人を一方的に裁くわけにもいかなくなるはずだと思ったりする。その辺でもきっしょい話だと思っている。自分も自分で精算していかないといけない。