飛べ

わーわー言うとります。

「名前を付けて保存したい」を観た話

・東京での2日目、夜にワールドスリーさんという大学生で落語をされている方のライブ「名前を付けて保存したい」を観た。

 

・落語自体もそんな明るい方でないし、学生の人が落研でやってる落語になると自分は全くくらい観たことがなかったし、漠然としたイメージくらいしかなかった。とはいえ、出演としてクレジットされてる人達は5名とも落語以外の学生お笑いだったり、それに隣接してる大喜利のシーンで凄く活躍されていたり、またそういった界隈に精通してる人達にものすごく面白いと言われてる人達だし、きっと面白いんだろうな、と思って観に行くことにした。あと、客演のそうせき。さんは共通の知人を介したりして結構長く互いを知っている人だけど、こういう舞台の人として出られている時に見に行ける機会がなかなか無く、これを逃すともう本当にないかもしれないな、と思ったのもある。

 

・で、これが、とんでもなく面白かった。約2時間の公演中、中野にある小さな劇場の舞台と50席ほどの客席はずっと異常な盛り上がりに包まれ、笑わせるための部分が全部爆発的にウケていて、来ていた人が本当にみんな口々に凄い、凄かったと言いながら帰って行ってた。こんだけ書いて、これが全然大袈裟じゃない現実だったんだから恐ろしい。

 

・とはいえ、きっと映像などが世に出ることもないライブだろうし、演者の人たちはみんな今年の春に大学を卒業される、いわば卒業ライブ的な公演だったようで、社会人になったらきっともう落語はやらない、と話されてた方もいた(本当に勿体ないので、いつでもいいので心変わりをお待ちしています)。なので、今から自分がこのライブをただただ凄かった凄かったというのをダラダラ文章に残しても仕方ないとも思う。誰がどんな演目をしてしてどんな話だったか、はヘオンキさんのnoteとかを観られて欲しい。けど、なんか感じたことを自分は自分で出力しておかないと明日からの社会生活に支障が出る。ので、自分が何と無く感じたことをいかに列挙して行きます

 

・まず、落語として成立しながらものすごく自由で、かつ感覚がアップデートされていた点。今回の演目は全て各演者さんによる新作のもので、かつかなり攻めた、ものすごく自由な内容のものだった。ただその「自由さ」みたいなものが、いわゆる今までの創作落語での「古典ではこんなことはやらないけど、この創作ではこんなことに挑戦している」みたいな大きな一つの軸で動いてるんじゃ無くて、それくらいのレベルのアイデアと挑戦が次から次に出てくる。「おしりが総理大臣になって安倍政治を斬る話」も「二人の少女がいつまでも一緒に大人になれずにタイムリープを繰り返す話」も「自分に自分がないと思って落語の世界に閉じこもる女の子の話」も、それ自体で一本の落語にできそうな大軸でありながら、それと同時に「NHKが主催する学生の落語大会で入選するために本気で高齢者と子供にウケに行った話を作り、実際にビデオ審査でNHKのスタッフには絶賛されながら、入選はちゃんとお断りされた自分」とか「深夜に疲れて帰っては二人の少女がいつまでも大人になれないタイムリープ物のアニメを毎週観て、いつのまにかそんなに好きになれるものを失ってることに気づく新卒サラリーマンの葛藤」とか「サンプリングアートに青春を捧げた自分が、落語の中に自分が好きな落語のサンプリングを散りばめながら、自分に自分がないという悩みを自分で俯瞰してキャラに落としながら自分で解決していく道を見つけて自分の中の自分のキャラの自分に教えてあげながら自分の中のキャラの自分が自立していくのを自分で演じることで自分は独り立ちしていくんだぞ、というのをみんなに見せる儀式のような表現」だったりの別軸が走っていて、かつそれらと並行して「YouTubeみたいに6秒でスキップされるマクラ」とか「エンディングで演目のタイトルが発表された時にもう1回オチるようになっている構造」とか、なんならこれら1個でも全然新作1本行けるくらいの斬新な仕掛けや構造がとにかく次から次に出てくる。観ていてとにかく心を揺さぶられる振り幅が大きいし、観ている間、とにかくものすごく脳と集中力のリソースを持っていかれるけど、話が面白いしどの演者さんも落語としての基礎的な演じる力というか体力や技量というのがしっかりあって、かつ舞台数があるからなのか(もはや当たり前なんだろうけど)人前で上がっているのが見えるとかそんなレベルじゃないし、なんなら人柄自体のチャーミングさすらすでに出てるレベルなので、とにかく全然観ていられる。

・帰りに同じ公演を見ていた方と話していて同じ感想になって、やっぱりそうなんだ、と思ったけど、街裏ぴんくさんのライブに通じるものがあった、と思った。落語と漫談でのフォーマットの違いはあれ、一人だけでの道具や舞台装置に頼らないで、喋りと演技だけで、聴く側の想像力の中で無限の世界を広げさせること、それを荒唐無稽に広げ続けさせながら最後には想像もつかないような果てにちゃんと落とし所を作って着地させることで物凄いカタルシスと無二の中毒性を見せ続けている人だと思うけど、昨日のライブで観たものを他に何かで例えるなら、今のとこ落語とかよりも街裏さんのそれに近いと自分は思う。

・あとは全編を通してのネタの中で出てくるギャグや例えのチョイスの世代感やテンポ感が圧倒的に新しかった。それは例えば、話の中で出てくる「ひぐらしのなく頃にの謝り方」みたいなフレーズで笑いが爆発する、演者も見ている側も共有しているワードや価値観がかなり更新されている(なんなら自分なんかはこれはもう何年後かには完全に置いて行かれてますな!ヒャーと本気で思ったくらい)という、文字通りそのものの「新しさ」でもあるけど、それ以上に、プロの芸人さんの世界でも第七世代などと区切りがつけて語られることがあるけど、あそこにある区切りは単なる偶然や年号によるものではなく、今の10代や20代くらいまでの人たち、物心ついた時にはすでにネットがあり、YouTubeがあり、過去の音楽や演芸のクラシックスや、オンバトやM−1なんかの名演にはあらかたいつでもアクセスができる環境や、雑誌やラジオのように1週や1ヶ月おきに更新される情報では無くて日々ノリが作られて更新されていく2chやニコ動のようなテンポ感の世界で生きてきた世代は、それまでの「学生時代までにそこまでネットがなかった世代」とはベースで持っている知識量や咀嚼量、自分の中で流れているテンポ感が全然違う、と思っている。それをありありと感じさせられるような時間だった。自分なんかはまだまだ全然、おそらくダウンタウンからずっとみんなの中で至上のものとされているような笑いの価値観、1本のネタの中に1つの超強力なボケや発明があればそれでネタは1本作れる、という価値観でお笑いを見ているけど、彼らはきっとそんなテンポ感で生きていない。そしてこの割合は今後確実に自分たちの側が「古い側」になっていく。そんな戦慄すらあった。

・あともう一つ挙げるとすれば、良い意味で演者と客席の距離が近かった、今回は別に何の前情報も持たない一見さんの人が来るようなライブではない、だいたいどういう演者が出てどういう内容かをわかっている人たちばかりが詰めかけていて、それなりに価値観やその辺の共有もされているし、お笑いについてのリテラシーもそれなりに高い人たちばかりが見ているので、本当は(全くの初見の人たちも意識するとしたら)もっと説明をつけないとさすがに判らないだろう、というボケも次々に決まっていくし、むしろそこの「ちょっと説明が省略されているから、一瞬理解できずに聞き流しかけたすぐ後にみんな意味が(各自の頭の中で)理解が組み立てられて笑いになる」みたいなトリックにさえなっていた。わかんない人が来てたら「わかんないんですけど」のままになる。その辺がうまくフィルタリングされていて、見る側とやる側のレベルが良い感じに高いとこでちょうど結ばれていたのも2時間ずっとすごい一体感になっていた理由だと思う。

 

・以上、これを書き残したとて、やっぱり観に来てなかった人にはわからないだろうし、観てた人ならすごかったのは知ってるよって話だし、これがネットに残されて何のためになるのか全くわかんないけど、僕はこの熱をアウトプットさえできれば今日はゆっくり休めて明日から仕事に戻れるので大変助かります。本当に凄いライブだったと思う、自分の知らないジャンルや世界にはまだまだまだまだすごいものがあるんだな、と思った話でした。